ふちどり

なんでもない日々

いつまでも泣いているけどごめんね

 

たのしみを、よろこびを奪うな、という話はよく聞くけれど、かなしみを、さみしさを奪うな、とはあまり言われない。むしろかなしみを取り去ってやることは良いことのように語られることすらある。

かなしんでいる人を見るとどうしても見ている方はつらいので、もう泣くのやめなよ、大丈夫だよ、などと言ってしまうのだろうけど、たのしむのと同じくらいかなしむのが必要な人がいる。あるいはそういう時間が必要な場合がある。世の中にどれくらいそういう人がいるか知らないけれど、少なくとも自分はそういうのが必要な質だ。

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涙が溢れてとまらない時、こうすると涙がとまるよ、こうするとかなしいこと考えなくて済むよ、と教えてくれる人がいるけれど、いつも(そうじゃない……)と思う。かなしみを取り去ろう忘れさせようとしてくれるその気持ちはほんとうにほんとうにありがたいことなのだけれど、どうか、かなしませてくれ、と思う。そんなのはわがままなのかもしれない。かなしんでいる暇なんてないのかもしれない。人生をめいっぱい使って、たのしいことをすべきなのかもしれない。

それでもやっぱり、どうか今暫くは、かなしませてくれ、と思う。かなしんでいる自分のそばに、ただそこにいてほしい、と思う。けれどそんなしんどいことをさせるのは酷だから、せめて自分がそのような人になりたい、と思う。かなしみも、よろこびも、それは具体的な形をもって外に現れる物ではないので、誰かによって取り去られたり与えられたり、なんてできっこないのだ。それはその人の内側に存在する何かで、その人そのものとはどんな道具を使っても切り離せないもの。

 

ぐるぐるのソーセージひとつ

 

本を読むのも、物を書くのも、物を考えるのもたのしくて好きで、だから自分はひとりでいる自分が好きなのだと思っていた。でも、ひとりの自分と同じくらい、外に出て誰かと何かおいしいものを食べたり、誰かとくだらない話をしてげらげら笑っている自分のことも案外好ましく思っている、ということに最近気がついた。自分はいつも何かに気がつくのが遅い。

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お金は今のところあんまりないけれど、ありがたいことにみなさまのおかげで生きてます。これからも、どうぞよろしく。なんて、友人に連れられて食べた、ぐるぐるのソーセージを思い出しながら願いを掛けてみる。

何もかも煙に巻いてしまおうよ

 

電車に揺られ、ぼんやりと工場の煙突から立ちのぼる煙を見ていたら、何ヶ月か前に河原でバーベキューついでに燻製したことを思い出した。なければ何でも自分で作ってしまう友人が自作したという木製の燻製器で、なんでもないベーコンとチーズを燻したのだった。使ったのは確かさくらチップ。それはそれはもう、おいしかった。燻製、すごい。煙もくもくさしとくだけなのに、と思った。

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食べものを煙にあてたらものっそいおいしくなる、というのはなんだか変な感じがする。もくもく煙に包まれている、ってあまり安心できる状況ではない。むしろ逃げたい。煙があるということは火があるということで、何かが燃えている環境、というのはたぶん生物が生きていく上であまり望ましい状態ではない。ふつうは避ける。この世で始めて火を手懐けて使用しようとした人、すごいなあ。かなり勇気がある。火にあてたら、肉、すげーうまくなるよ、っていうのに気がついた人、煙にあてたらもっとうまくなるよ、って気がついた人、すごいなあ。大発見だよ。おかげであんなに美味しいものが食べられた。ありがとう、昔の誰か。

なんて煙から太古の人に想いを馳せていたら、何駅も乗り過ごした。

 

ばらばらに散らばる強化ガラス

 

茶店などでもよく使われている、DURALEXというブランドのフランス製のグラスについて調べていたら、検索の予測の欄に「DURALEX 爆発」というのが出てきた。なんだなんだ物騒な、と思ったら、強化ガラスというのはちょっとした欠けや衝撃で突然ばらばらに砕け散ることがあるらしい。実際にその「爆発」が起こったことを書いているブログがいくつか出てきて、そこに載っている写真を見るとほんとうに「爆発」としか言いようのない割れ方をしていて驚いた。強化ガラス、というのはちょっとやそっとじゃ割れにくいことが売りなはずだけど、その強さは圧力をかけて作ることでできているものなので、強いは強いのだけれど、そうやってぎゅっと内側に閉じ込められた力が、何かの拍子で外側に向くと爆発することがある、ということらしい。

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ほほう、と思った。なんだか人間みたいじゃないか、と思った。見せかけの強さを持って、爆発、しないように気をつけよう、と思った。

昔々、8がありましたとさ

 

ふと机に目を向けたら曲がったコードが8だった。少しだけうれしい気持ちになった。

 

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このブログはもやもやと頭のなかが言葉だらけになったときに吐き出すために使っていたけど、これからはこういう小さいことの記録にも使おうかな。なんて思ったり思わなかったり。 この前2017年7月7日に日付を変えた過去の記事は、やっぱりどうしても恥ずかしくなって全部下書きに戻した。

 

なんだか異様に眠くてなかなか起き上がれないこの頃です。

みんなみんなずっとそこに居てほしいだけなのにな

 

 

ずっと背中を見ていたいあの人やあの人が、居なくなってゆく。憧れの彼ら彼女らは自分より早く生まれているんだから先に居なくなるなんてそんなの当たり前だけど、ひとり、またひとりと居なくなるたびに、ああこうしてどんどんみんな居なくなってしまうんだよな、とどうにもやるせない思いが滲んでふぁさっと灰色のベールを広げたみたいになる。

 

ふん、どうしても居なくなるっていうなら構いやしませんよ、後悔するのはそっちなんだからね。とか、強がって誰もいない壁の方を向いて言ってみたりするけれど、ただ自分の声がもわんと広がって消えて、あの人はもう居ないんだということがよりくっきり浮かび上がる。そういう時というのはもう、たまらなくさみしい。気がつくと透明で生温かい水が頬を伝っている。

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もう会えないのか、嗚呼かなしいねえ、さみしいねえ、というのや、あんな人だったねそうだったねと思い出すところまで含めて、まるっとその人と自分との関係で云々、みたいなことを糸井さんだったか誰だったかがどこかで言っていて、そんなの頭ではわかってる、わかってるはずなんだけど。取り残される方としてはやっぱり、なんでよどうしてよ居なくならないでよ、そんなの嫌だ嫌だ、とこころに棲むこどもが駄々をこね始めたりして困る。それにお葬式をしてお線香あげて焼かれて骨になったのもぜんぶぜんぶ見て、何度もお墓まいりに行って、それでももしかしてそのへんの角を曲がったら、あれ?久しぶり〜〜ってばったり会えるんじゃないかという気がする。もう会えない、もう居ないということは、何度やったってうまくのみこめなくて眉間にしわが寄ってしまうけれどいつも深呼吸してごまかしている。

 

居ないが居るになってまた居ないになるというのは、もうほんとになんていうか、どういうことなんだろう。どうしたらいいんだろう。みんなずっとそこに居てほしいだけなのにな。でも自分だってそのうち居なくなるんだよな。それは明日かもしれないし54年後かもしれないし3秒後かもしれないんだよな。それまでは居るんだよな。なんなんだろな。よくわかんないけど、もう、居なくならないでよねとおもうのです。