ふちどり

後ろ見ながら前に進む、僕の日記。

ねむる

 

なんだか今日は眠れないので、眠ることについて書いてみることにする。

 

 

僕は基本的に、今日のように「眠れない」ということが日常あまり起こらない人間である。

 

高校時代から何となく朝型で、それがずっと今でも続いている。夜の10時以降はほとんど機能停止みたいな感じになり、何をやっても効率が悪いので、遅くて11時にはもう寝てしまえ、となる。日をまたいで起きていることは無い。布団に横たわれば3分とかからず眠りにつくことができる。そして、目覚ましをかけなくても何となく4時半から5時くらいには自然と目がさめる。このスタイル(?)を人に話すとたいてい、君はお年寄りみたいだな、と言われる。お年寄りというより少しばかり朝に強い小学生だ、と自分では思っている。

 

昔から人間という生き物の統率方法というか、管理方法というか、どのような生活をするとどのような気持ちや行動が起こる傾向があるのかみたいなことに妙にこだわって、人間の中でも唯一内側から観察できる自分の身体を使っていろんな実験をした。

なんて書くとかなり怪しげだけれど、僕はただ心も体も健康に生きる術を知りたかった。そしてその術を知るにはどうやら、睡眠・食・他人との関わり、という3つのテーマを追求する必要があるようだと考えた。中でも最も記録と分析がしやすい睡眠について、いろいろ試した、という話。

 

11時就寝、4時半起床の生活は、断続的にだがかれこれ5年にはなると思う。日々の生活の中で睡眠の部分が固定されていることで、他の部分で起こった体調や気分の波を自分で察知しやすくなったような気がする。

「眠れない」が起きる日は、気持ちの面で比較的いろいろあった日であると言える。神経がたかぶっている、という表現で正しいかわからないけれど、いつもの時間になってもシャットダウンできないくらい未処理、あるいは現在進行形で処理中の何かが残っている状態。もう1人の自分に、眠ったりしてこのことを忘れたりしたらだめだ、まだ起きてて考えな、と言われているみたいな感じ。

 

今日は普段会わない人と会って、慣れない話題についてたくさん会話をして、ということをしたので、おそらくそのことでメモリがいっぱいなのだと思う。これは種々ある「眠れない」の中でも、深刻でないほうのやつなので、処理が終わるのをじっと待つのみ。

 

がんばれ、ぼくの脳みそ。と思う。

たべる:かんがえる

 

最近の僕は「食べすぎ」かつ「食べなさすぎ」だ。

 

例えば、常備菜のつもりで作った何日ぶんものおかずをすっかり食べ、苦しくなって動けなくなる、みたいなことをしている。

かと思えば、忙しくしていて、気がついたら何日もごはんを食べるのを忘れたりもする。

 

僕は考えるべき事柄をたくさん抱え忙しくあっぷあっぷの時、つまり頭がいっぱいの時、お腹も空かなくて、ごはんを食べるのを忘れる。

反対に何も考えるべきことがなくてぼんやりしている時、つまり頭が空っぽの時、かなりお腹が空いてつい食べすぎる。

考えることだらけで頭を使っている時はお腹が減りそうなものだが、全くもって食べることを忘れてしまうから不思議だ。

 

考えることだらけの状態というのは、外に出すべき事柄が整理されないままたくさん頭の中に存在している状態であり、情報を食べすぎてまだ消化出来ていないみたいな感じで、これ以上何かを取り込めない状態とも言える。

そう考えると頭がいっぱいの時ごはんを食べられないというのは繋がりがないとも言えないのではないか。

なんて、食べることに関してうまくバランスを取れないでいる自分にとって都合の良い理論、もとい言い訳を考えたり。

おそらくこんな奇妙な関連性は他の人には起こりえないのかもしれないが、少なくとも僕は頭とお腹がある程度リンクしているようで、今後もこのおかしな繋がりを持って生きて行くことになりそうだ。人間の身体というのは、我ながらなかなか面白いと思う。

 

 

 

 

 

 

じっと

 

僕にはあまりじっとしていられないという性質があって、その性質がこの頃ものすごく顕著にあらわれてきている。ような気がする。

 

なぜだろうな、と考えてみると、これにはおそらく僕が今置かれている人生の段階というか、僕自身の意識の上での過去と現在と未来の関係性の変化のようなものが関わっていると思う。

というのも、僕は今自分の「これからのこと」に興味があって、日々そのことばかり考えている。考えているだけでなく、「これからこう生きたい」というところに向かって行動する段階にいる。

 

もし数年前の僕が、今の僕を見たらめちゃくちゃ驚くだろうな、と思う。昔の僕は「これまで」によってつくられた「いま」の僕が嫌で、後ろばかり見てはうじうじしていた。今となっては懐かしいし、そのうじうじも必要なうじうじだったと思うけれど、過剰にうじうじしていた気がする。(お?うじうじを乱用したら、ちょっと書きながらたのしくなってきた。)

 

そんな過剰うじうじだった僕はいま、誰に何を言われても絶対にやりたいと思うことをひとつ心のなかに持っていて、そしてそのおかげか余程のことにも動じない図太い精神をも持っている。

自分で言うのもおかしいが、なんと自立した人間になったことか、と思う。

 

で、そうなると、やっぱりやりたいことに対して自分が持てる時間というのは全くもって足りなくて、ちょっと休憩とか言ってじっとしていたらあっという間に死んでしまうような気がして、余計じっとしていられなくなる。

 

さらに、僕のやりたいことというのは一朝一夕にぱっと形になってできるようなものでなく、例えば一度では綺麗に剥がれきらないタイプの頑固なシールがたくさん貼ってある窓ガラスから、シールを一枚一枚丁寧にはがす、みたいな地味なものなので、そのじれったさに一層そわそわ、落ち着かない気分になる。

 

でも僕はどうしてもそれがやりたいんだから仕方ない。ぜんぶ綺麗にシールが剥がれたらきっと美しい景色が待っている。だからそう結論を急ぐな。辛抱することだ。と言い聞かせながらも、やっぱりじっとしていられなくて、無意味に手足を動かしてみたりしてしまう。きっとこれからの僕の人生は何事においてもこういう感じなんだろうな、などと勝手な予想をたててみたりする。

 

じっとしていられなさが増してくるのは一見好ましくないことだけれど、僕の視点が「これまで」よりも「これから」の方に向いてきたことの表れかもしれない、などと自分の挙動を正当化しながら、落ち着かないけれどたのしく日々を過ごしているこの頃である。

 

匂いとその人

今日は雪が降っていてなかなか外に出る気になれず、夕方になってやっと外に出た。

 

雪道をざすざす歩いて、店に入ってしばらくして、手から玉ねぎの匂いがすることに気がつく。

こういう料理中についた匂いって、料理をしている最中は鼻が慣れてしまって気にならないけれど、しばらく時間が経ったり場所を変えたりすると急に匂ってくるから不思議だ。ちゃんと手洗ったのに。

 

僕は目も耳も舌もあまり良くないけれど、なぜか鼻だけ良くて、物事の判断を嗅覚に頼るところがある。

人の名前や顔を覚えるのが苦手なのもたぶん、人を匂いで覚えているからだと思う。

 

体臭、というと嫌な匂いのようだけれど、僕にとっては顔と同じぐらい、一人ひとりに異なった匂いというのがあって、それによって個人を識別する。

バターの匂いの人、紅茶の茶葉の匂いの人、牛乳を温めた匂いの人、などいろいろで、その人そのものより、その人の纏う空気が僕にとっては「その人」になる。

こういう少し変わった嗅覚ゆえか、ずっと昔から僕は、人間というのは人「間」と書かれるようにやはりその境い目はぼんやりしていて、ゆらゆら揺らぐものという意識があるような気がする。

 

おかげで僕はこんなに不確かで頼りない、ふわふわした人間になったのかもしれない、なんて思いながら手から漂う玉ねぎの匂いを嗅ぐ。

 

うごく、すすむ、きまる

 

来週、僕はまた旅に出る。

 

今回の旅は短い。ほとんど行って帰ってくるだけみたいなものだ。誰かに会いに行くわけでも、何かを見に行くわけでもない。ただあることについて決心するために行く。

 

物理的に前に進む、移動するということと、精神的に前に進むことは、どこかでリンクしているような気がする。

だから僕は、ちょっと行き詰まるといつも散歩に出かける。ただただ歩くだけで、何かが頭の中でかちりかちりと動いて整理されて、運が良ければ多少物事を進めるきっかけを得ることができる。

 

こうしてたいていのことは歩くことでなんとかなるけれど、ただ歩くくらいではどうにもならない状況にまで到達してしまった場合、僕は旅に出る。

電車だったり飛行機だった手段はいろいろだが、とにかく歩くよりも早く移動する乗り物に乗って、できるだけ遠くに。

 

逃亡、ということではない。仕事とか日常との折り合いをつけてから旅に出るし、もちろんちゃんと帰ってくる。

 

僕は考えねばならないことを考えるために、物理的に早く移動する必要がある、ただそれだけ。

明るい話をしよう

 

昨日はバレンタインの波にのまれて(?)暗めの話をしてしまったので、今日はタイトル通り明るい話をしようと思う。

 

実は僕はいまとてもわくわくしている。というのも、あることがもうすぐ完結し、さらに次の終わりの見えない段階に入ろうとしているからだ。

期限があって追い詰められるのもこわいけれど、いつまでも終わりが見えないのもこわい。早く終わってほしいけれど終わってほしくない、という一見矛盾したふたつの気持ちを長い間抱えていると、突然わーー!!と叫んで走り出したくすらなる。

 

なんて書くと今の僕の状況はどうしようもなく救いがないようにも見える。

しかしここで重要なのは、こわいという感情とわくわくという感情は紙一重ということで、つまりどうにかこうにか「こわい」の段階を通り越すことができれば「わくわく」の段階に到達することができるのだ。

 

こういうことを理解するのに僕はかなり時間がかかってしまって、えらい遠まわりしたなあと思うのだが、まあ気がつけたので良かった。そうでなければいつまでもたどり着けずに、こわいこわいと震え続ける人生を送っていたかもしれない。(相変わらず大袈裟だなあ、我ながら)

おそらく他の人は人生のもっと早い段階で気がついて、さらに進んだところにいるんだろうなと思わなくもないが、ひとまず今の時点に到達できた自分を褒めておこう。

 

ええと、何が言いたいんだったかしら。

みんな、わくわくしようぜ!みたいなことを言いたいのかもしれない。

基本姿勢が後ろ向きで腰が引けていて、それがなかなか治らないなら、せめて顔は笑ったままでと願っているのかもしれない。

 

なんだか明るい話なのかよくわからなくなってきてしまった。今日はこの辺でおしまい。

恋の熱は冷めれど

 

バレンタイン。

 

世の中はいつの間にかバレンタインと言えばチョコレートということになっていて、おいしそうなチョコレートがたくさん並ぶ。それはかなりうれしい。

店先に並ぶ様々なチョコレートと、それに合う様々なコーヒーの組み方を考えたりしているとたのしくて、あっという間に時間が過ぎる。

けれど同時に、「おい、恋愛について考えろ」と喉元にナイフを突きつけられているような気持ちになったりもして、いつも2月14日はうまくやり過ごせない。

 

 

チョコレートを売りたい人たちの策略によって生まれた文化なら、僕は毎年この時期チョコレートをいくつか買ってちゃんと貢献しているわけだし、なにもこんな気持ちにさせることないじゃないか、などと見えない誰かに向かって愚痴る。

 

愚痴りながらも、一度スイッチの入った僕の脳みそは考えるのをやめてくれないので、あることないこと思索してみる。

恋とか愛とかよくわからないけど、僕が恋愛なるものを通して得たものが何かあるとすればそれは音楽だなあとぼんやり思う。

もう得る得ないと言ってる時点でそれは愛ではないだろうという声が聞こえてきそうだが、まあそれは今はちょっと置いておいて。

 

これまで僕が好きになったひとの好きだった音楽は、その人が好きでなくなったり、あるいは好きでなくなられたりしても、好きだった間に蓄積した音楽はずっと頭の底のほうで鳴り続けていて、はっと気がついた頃にはそれらは既に奥深くにまで浸透して取り除くことはできない。

もらった物や写真なら捨てれば一応は断ち切ることができるかもしれないが、もらった音楽は捨てられない。リストから消したところで突然脳内再生されたり、何となく口ずさんでいたりする。不意をつかれてぎょっとする。

 

とは言え、僕がその人を好きにならなかったら、その音楽を聴かずに一生を終えていたかもしれない。それはひどく勿体無いことのように思える。その人そのものからは離れてしまったけれど、その人の好む音楽に出会うためにその人に出会ったのかもしれない。

などと後付けの辻褄合わせの理屈を考えて、うまいこと僕は僕を言いくるめて無理矢理前を向かせようとしてみたりする。本当は理由なんて意味なんてなんにもないけれど、こうやってどうにかのみこんでいかないと僕はたまに音楽によって溺れそうになるから。

 

 

恋の熱は冷めれど音の熱は冷めない、ってか。