ふちどり

後ろ見ながら前に進む、僕の日記。

不在証明

 

何かが「ある」ということを述べるにはその「あるもの」を指さすだけで良くても、「ない」ということを述べるには「かつてあったもの」、「いまありそうなもの」、「これからあるかもしれないもの」というすべての「ある」可能性を「ない」と指さして回らなければならない。

つまり「ない」ことを証明するより「ある」ことを証明する方が遥かに簡単で、このことは時に僕の判断を鈍らせる。

 

とりわけずっとそこにあったものや信じてきた何かを、もうそこにはないとか、それは間違っていたのだ、と認めるのは容易ではない。

その何かというのが、人に関わることであれば尚更のこと。

 

冷静に考えたらもうこれ以上一緒にいるべきでないとわかっていても、「昔はあんな人じゃなかったんだけどな」と、かつて信じた姿を否定しきれず気がついたら何年も経ってしまっていたりする。

あるいは、もう何年も前からこの世にはいないはずのあの人が、もしかしてあの角からひょっこり現れて、「やあ久しぶり」と言ってくれるのではないかと期待してしまう。

 

といったように、僕は「ない」か「ある」かという場面では「ある」の方を信じようとしてしまいがちだ。それはたぶん「ある」の方が楽だから。かつてそこにあったものが「もうない」よりも「まだある」と思う方がずっと楽だから。

ついつい目をつむって、もうないことを確かめるのを避ける。見ないふりをするのは簡単だ。「ない」を「見ないふり」って、いよいよ混乱してくるが、ないを見ないということは、あるを見ることもできない。だって目をつむったら何も見えない。それじゃあ楽しくない。第一永久に目をつむって生きるのは難しい。

 

だったら。だったら僕はしかとこの目を見開いて、何もかも見てやる、とこの頃は思う。「ある」も「ない」も、ぜんぶ見てやる、と思う。前より少しだけ強くなった僕は、目をつむって見ないふりをしなくてもきっと大丈夫と言い聞かせる。これからは凝視の(?)日々を過ごすことになりそうだ。せめてないはずのものまで見てしまわないよう、気をつけることとする。